三 頭 火  ( 漂 泊俳 人 )

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  世間 から 脱し、 自由 を 愛し、 酒 を 愛し 行脚 の 旅 を 続けながら 俳句 を 

  作り続けた 山 頭 火 行 乞 (ぎょうこつ、お坊さんが 乞食 をして歩くこと) 俳 人   

   自由律俳句 ( 五七五の形式にとらわれない 俳句 )  

  平易 で 飾り気 の ないことばが、独特の 雄大な 雰囲気 をかもしだし、 

  しみじみと 心 にしみとうる 句 となり、没後 70年 近く経った 今なお 

       山 頭 火 ブ-ム は 衰えることは ないという

               

                 うしろ姿 しぐれて ゆく か 」   山 頭 火  

       アサヒグラフ別冊 1990年2月       田中遙邸 画集より 

           田中遙邸 日本画家      明治28年~昭和63年                         

     帝展、日展の審査員そして数々の受賞   晩年は 山頭火の句 を題材に 

             山頭火 シリ-ズ の 制 作 に 情 熱 を 燃やす 

  
    山 頭 火 生 涯 

     明治 15 年 山口県 の 作り酒屋 に 生まれましたが、11才のとき 母 親 投身自殺

     これが 一生 の
の 傷 となります。

     現 、 防腐高校 を
主席 で 卒業後、 早稲田大学 に 進学

     大正 5 年 家 が 破綻し 妻子 を 連れて 熊本 に 移り住み、 文房具店 を 営む

     しかし、自身 の
苦悩 から 逃れること が できず、家業 は 妻に 任せ、

     
俳句 に 没投する 日々 を 送ります。

     大正14年、 44才で 
出 家 鹿本郡植木町 の 味取観音堂の堂守 となりますが、

     その後も
放 浪 の 旅 をつづけ、 昭和 15 年 四国松山 で 倒れます。


                  

           味 取 観 音 堂  熊本市野田町 大慈禅寺 境内の句碑


            


      家 を 持たない が ふかうなった   蚊 帳 の 中まで まんまるい昇る


                    

    分け入っても 分け入っても 青い山               種田 山頭火


                     ↑
             こんなに うまい 水 が あふれている

                                   
      

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          尾 崎 放 哉         2017 3 26  U p


     尾崎 放哉(おざき ほうさい、、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は、
  
     日本俳人種田山頭火 らと並び、自由律俳句の最も著名な俳人の一人である。鳥取県鳥取市出身

 
     東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険(現:朝日生命保険)に就職し、大阪支店次長を務めるなど、

     出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然、それまでの生活を捨て、

     無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の生活に入る。その後、寺男で糊口(ここう)をしのぎながら、

     最後は小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら、俳句を作る人生を送った。

     クセのある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称された。

      その自由で力強い句は高い評価を得、代表的な句に、「咳をしても一人」などがある




            

                      終 鴛 の 地   南 郷 庵   伊 豆 資 小豆 島


              


              人 物 エヒソード
        

     季語を含まず、五・七・五の定型に縛られない自由律俳句の代表的俳人として、種田山頭火と並び称される。

     旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、放哉の作風は静の中に無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた

     俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、

     他の法学部卒業生を嫌うという矛盾した性格を持ち、またを飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。

     唯一の句集として、死後、荻原井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。

     放哉の伝記的小説を書いた吉村昭によると[4]、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、

     会社を退職に追い込まれたという[4]。妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り、

     保険会社の寮母として生涯を送った[4]。放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、

     晩年の八ヶ月を小豆島西光寺奥の院で寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった[4]

     吉村が1976年に取材のため島を訪ねた時、地元の人たちから、「なぜあんな人間を小説にするのか?」と言われたほどで、

     「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今、彼が生きていたら、

     自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている[4]。それでも、島の素封家で俳人の井上一二と寺の住職らが

     支援し、近所の主婦が下の世話までして臨終まで看取った[4]。吉村の小説『海も暮れきる』は、

      海が好きだった放哉にちなんで、放哉の句「障子開けておく、海も暮れきる」から取ったもの
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                    代 表 句


            


            



            


                                         



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